Shakuhachi no mori? ヤドランカ
春雨や 小島にみゆる 海の道 (乙字)
春の夜を 尺八吹いて 通りけり (子規)
夜桜や 美人天から 下るとも (一茶)
よく散るも 待たれし 花の心かな (宗祇)
ヤドランカの「俳句HAIKU」は
作者もその活躍した時代も異なる四句を組み合わせて作られた作品。
ヤドランカのメロディに乗ると、それぞれの句が自然に繋がり、
春の心象がたゆとう一つの作品に完成されていることに驚かされます。
ここでこの四つの句の作者についてご紹介しましょう。
大須賀乙字(おおすがおつじ)
1881(明治9)年7月29日〜1920(大正14)年1月20日 享年38
俳人、俳論家。
1908(明治41)年、東大在学中に発表した「俳句界の新傾向」は
俳論家としての名を世に知らしめた。
正岡子規(まさおかしき)
1867(慶応3)年10月14日―1902(明治35)年9月19日 享年34
俳句 短歌 小説 評論 随筆等で日本の近代文学に多大な影響を与える。
雅号の子規とはホトトギスのことを言い、結核で喀血した自分自身を、
血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたもの。
小林一茶(こばやしいっさ)
1763(宝暦13)年6月15日―1828(文政10)年11月19日 享年65
江戸時代に活躍した俳諧師。一茶の句は生前は田舎俳諧とみなされたが、
後に正岡子規の「俳人一茶」1897において評価され後世にその名を知らしめた。
宗祇(そうぎ)
1421(応永28)年7月30日―1502(文亀2)年9月1日 享年81
室町時代の漂泊の連歌師。応二の乱以降、全国的に連歌が流行し
その第一人者として活躍。
それぞれの活躍した時代をみると、一番若い年代の乙字が生まれたのは
一番古い宗祇の死後400年近く経ってから。
ヤドランカの「俳句HAIKU」は、まさに数百年の時を越えたコラボ。
ヤドランカならではの発想です。
この作品が旧ユーゴの国々で今も尚、ヤドランカの代表作のひとつとして
愛されている素地に、旧ユーゴの構成国のひとつクロアチアに
俳句の愛好者が多いということも考えられます。
Dudrovnikドブロヴニク(クロアチアの世界遺産) ヤドランカ
では、クロアチアではなぜ俳句が親しまれているのか?
クロアチア語は母音がはっきりしていて、日本語のひらがなと同じ表音文字。
そして読み方もローマ字読みでほぼ通じます。
そのせいでしょうか、現地の人達の会話を聴いていると、
ふと日本語の単語が混ざっているように聴こえる瞬間があります。
クロアチア語は日本語のように倒置もあり、語尾変化から主語を省いても通じやすい。
なので、クロアチアの人にとって日本語の俳句のリズムは言語学的にも
親しみやすいものなのかも。
※ちなみにボスニア語もセルビア語もモンテネグロ語も方言的な違いに由来する
発音の問題と文化的な背景に由来する語彙の違いはあるけれど、
元はクロアチア語と同じ基盤の上に発達した言葉で文法構造も同じ。
お互いに通訳は不要。
(ヤドランカの友人、中島由美さんが野町素己さんと書かれている
「ニューエクスプレス セルビア語クロアチア語」を参照)
中島由美 野町素己 著 ニューエクスプレス セルビア語クロアチア語 白水社
クロアチアの世界遺産、ドブロブニクにて2006年ヤドランカ
クロアチアには「クロアチア俳句協会」もあります。
クロアチアに俳句を紹介したのはヴラディミル・デヴィデ博士(1925−2010)
ヴラディミル・デヴィデ博士(1925−2010)Wikipediaより
彼は1970年に 『日本の詩「俳句」、そして俳句の文化的な枠組み』
という俳句に関する著作を出版。その後も俳句を中心とした日本文化の研究、発表、普及に貢献し、
1983年には、俳句などの日本文化をクロアチアに広めた功績を讃えられて
勲三等瑞宝章を受勲しています。ちなみに奥様は日本人。
後年、世界俳句協会の顧問なども務め、没後、彼の名を冠した
ヴラディミル・デヴィデ俳句賞 (Vladimir Devide Haiku Award)も創設されています。
俳句に親しむ人が多いクロアチア。
日本語の意味は解らずとも、ヤドランカの歌う「俳句HAIKU」は
人々の心に遠い日本への憧憬を抱かせているのでしょう。
追悼盤に収録した作品「俳句HAIKU」は
アルバム「baby universeベイビーユニバース」「音色」にも収録されています。
追悼盤「Hvalaフヴァーラ」にも友人の三浦勢津子さんによる俳句四句の
英訳が掲載しております。
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