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「Hvalaフヴァーラ」 アルバムこぼれ話 Vol.1〜 10
「Hvalaフヴァーラ」 アルバムこぼれ話 Vol.11〜20
「Hvalaフヴァーラ」 アルバムこぼれ話 Vol.21〜24


「Hvalaフヴァーラ」 アルバムこぼれ話 Vol.7
サラエボ事件の現場 ラティンスキー橋


サラエボの街を東西に流れるミリャツカ川に架かるラティンスキー橋。
オスマン帝国時代に造られた美しい石の橋です。

ラティンスキー橋(ラテン橋)の名前の由来は
16〜17世紀頃、この辺りにカトリック教徒が住んでいたことによるのだとか。

  

今から約100年前、1914年6月28日
この橋の北端でオーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナント夫妻が
セルビア人の若者ガブリロ・プリンツィプに暗殺されました。
これが第一次世界大戦の契機となったサラエボ事件です。   

  

長年オスマン・トルコの支配下にあったボスニアは、19世紀後半からはオーストリア・ハンガリーの二重帝国に領有されていました。
ガブリロ・プリンツィプはその支配に抵抗するスラブ系若者の結社「青年ボスニア」の一員。

軍事演習の視察を終えた皇太子夫妻は、オープンカーでサラエボ市庁舎に演説に向かう途中、
結社の別のメンバーに爆弾を投げられたのですが、後続の車が被弾し無事でした。

皇太子夫妻は市庁舎での演説を終えると、被弾した負傷者を見舞う為に病院に行く予定を追加しただけで今では考えられない事ですが、当初の予定のままのルートで車を走らせて行きます。

ミリャツカ川に沿う通りを行く車列が「ラティンスキー橋」のたもとに差し掛かった時、
見舞いに行くなら直進すべきを それを知らされていなかった運転手が右折してしまいます。
慌てて方向転換しようとしているところを、
皇太子夫妻はガブリロ・プリンツィプに至近距離から撃たれました。

これを機にオーストリアはセルビアに宣戦布告し第一次世界大戦が勃発。
この第一次世界大戦で一千万に達する人命が失われたのです。

  

皇太子夫妻暗殺を企てた結社の若者の一人は、
この行動が多くの国を巻き込む第一次世界大戦を引き起こすことまでは
想像もしていなかったと後に語っていたそうです。

サラエボ事件後、オーストリアの植民地支配に抵抗したセルビア人青年プリンツィプは
英雄扱いされ橋は彼の名前をとってプリンツィプ橋と呼ばれるようになりました。
旧ユーゴ崩壊の後は元のラティンスキー橋という名前に戻されています。

  

事件現場の橋のたもとには、サラエボ事件についての展示がされている
サラエボ博物館があります。

ラティンスキー橋は悲惨な歴史の発端の場となった橋ですが、
ヤドランカはラティンスキー橋そのものの美しさを人々の記憶に留めるかのように描いています。
色彩のリズム、そしてその構図にヤドランカの心象を感じさせます。

追悼アルバム「Hvala フヴァーラ」のブックレットにはこの橋の絵の一部をコラージュして載せています。

  
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